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四国最南端の地から出た、日本人米国留学生第一号 < ジョン万次郎 / 高知県土佐清水市 >

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四国最南端・足摺岬。

四国八十八ヶ所・第38番金剛福寺と岬の灯台を望むこの地に、当地出身の偉人の銅像が立っています。

ジョン万次郎という人物

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ジョン万次郎(中浜万次郎)

幡多郡中濱村(現 土佐清水市中浜)の漁家に生まれた万次郎は、14歳の時 漁に出ている時に嵐に遭い、遠く伊豆諸島の鳥島に流れ着いた。
そこで生き残った仲間たちと 五か月に及ぶ漂流生活を送っていたところへ、偶然アメリカの捕鯨船が島を通りがかり 万次郎たちは保護された。

一向がアメリカ本国に護送される中で、仲間たちはハワイで下りるが 万次郎は船長・ホイットフィールドに特に気に入られ、アメリカ本国に上陸することになる。
そして万次郎はホイットフィールド家の養子として迎え入れられ、教育を授かる。
先進の航海技術など 寝る間を惜しんで勉学に励んだ万次郎の成績は非常に優秀で、大学では首席にもなった。一方では人種差別も経験した。

漂流から9年の年月が経ち、日本への帰国を決意。
ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコで金を採掘する仕事に就き、そこで得たお金を資金に小舟「アドベンチャー号」を購入。上海行の商船に載せて太平洋を航海、本船と日本近海で別れ 琉球に上陸した。

当時の琉球王国は薩摩の支配下であったため、一旦 薩摩に送られ取り調べが行われたが、開明家であった島津斉彬に厚遇され、自身が得た先進の技術・知識を惜しみなく披露した。

その後 長崎を経由して土佐國に帰国。故郷である中浜に戻ることが叶い、母・汐(しお)と再会。漂流から実に11年の年月が流れていた。

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時は幕末、鎖国下の日本。そして嵐に遭っての漂流。
万次郎はいくつもの幸運が重なり合って 命を落とすことなく、帰国することができた数少ない人物となった。

万次郎の故郷・中浜(なかのはま)

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ジョン万次郎の銅像が立つのは 足摺岬。
地域の中心(土佐清水市)は清水。

その中間、足摺西海岸に位置する "中浜" が万次郎の生まれ故郷です。

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中浜に行くと 復元された万次郎の生家があります。

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そこには 当時の漁民の生活が再現されている他、

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帰国してからの万次郎を取り巻く出来事が紹介されています。

育て親であり 恩師でもある船長・ホイットフィールドとは 後に再会しており、後年始まった それぞれの子孫たちの交流も紹介されています。
中でも 万次郎がホイットフィールド船長に宛てた手紙。英文と和訳されたものがあるが、後述の通り 万次郎は日本語があまり上手では無かった。特に文章を書くことは苦手だった。自身の恩人へ一生懸命書いたであろう文章は、必見です。

帰国後の万次郎

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故郷・土佐に帰ることができた万次郎だったが、激動の時代は 穏やかな生活を許すことはなく、すぐさま幕府直参の旗本の身分を与えられ 黒船として来航したマシュー・ペリーの通訳などに活躍した(スパイ嫌疑がかけられ 途中で罷免)。

万次郎は当時の日本人が誰も知らない 見たことが無い数々の経験と豊富な知識を有していたが、日本で教育を受けていなかったため 日本語を話すことはできても 文章を読み書きすることは苦手だったとされる。
ゆえに 通訳としては優秀だったが、西洋の文章を日本語に翻訳して書き写すことが求められた明治初期においては 活躍の機会が限られてしまったことは、不運な点だった。

万次郎は期せずしてアメリカ本国の地を踏んだ日本人、またアメリカ留学生第一号となり、欧米列強が迫る幕末の日本で 無くてはならない人物になりました。
彼の性格からか その功績は決して燦然と輝くものではないけれど、縁の下の力持ちとして 四国最南端の地・足摺で語り継がれています。

ジョン万次郎生家

< 自家用車 >
高松駅から 約4時間10分、267km
高知龍馬空港から 約3時間、159km

※ 主な地点からの最速・最短距離

この記事を書いた人

野瀬 章史
野瀬 章史/ゲストハウスそらうみ 四国八十八ヶ所霊場会公認先達 法名・照山の僧籍

四国高松でゲストハウスそらうみを運営する傍ら、四国八十八ヶ所霊場会公認先達として、お遍路さんの案内を務める。法名・照山(しょうざん)の僧籍も持つ。趣味はバイクツーリング、カヌー、登山、鉄道、料理など。日本の全離島・全地点を隅々まで回るべく、愛犬しょうとの日本一周旅の途上。