阿波山中。皇室に麻衣を調進してきた一族の話・前編 < 三木家住宅 / 徳島県美馬市木屋平 >
ここは阿波國山中。鮮やかな枝垂桜(しだれざくら)に彩られた古民家は「三木家住宅」
徳島県現存最古の住居と言われ、今も現当主のご家族の方々が住まわれています。
家屋は国の文化財に指定された貴重なもの。そこで暮らす一族は、次代の皇室継承を担う重要な役割を担っています。
三木・三ツ木・貢
三木家住宅へは、国道492号のこの場所から分岐します。
国道として番号は付いていますが、いわゆる "酷道" であり、
北側の美馬市穴吹(あなぶき)・南側の美馬市木屋平(こやだいら)
どちらから来るにも道幅が狭い箇所が何箇所も存在するので、運転には注意が必要。
ここ分岐地点の大字名は "三ツ木(みつき)"
三木家住宅がある場所の大字名は "貢(みつぐ)"
「三木(みき)」「三ツ木(みつき)」「貢(みつぐ)」
ここに暮らす一族が背負っている運命が表された姓・地名と言えそうです。
歴史を紐解くと 14世紀の南北朝時代に遡る。
鎌倉幕府の倒幕においては盟友の「足利尊氏(あしかがたかうじ)」と「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」だったが、後醍醐天皇が行った建武の新政(けんむのしんせい)に 武家出身の足利尊氏が離反。京を脱出して吉野に逃れた後醍醐天皇の南朝と、京に留まった足利尊氏の北朝。両者が天皇を立て、それぞれが元号を定める二つの政権が並立した。56年間続いた南北朝時代です。
最終的に南朝第4代・後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が、北朝第6代・後小松天皇(ごこまつてんのう)に譲位する形で南北朝時代は幕を閉じたが(=明徳の和約 / 1392)、次第に北朝が勢力を伸ばしていく過程の中で、国を追われ 辺境の地へ身を潜めた一族もあった。
南朝の末裔
忌部(いんべ)氏は 南朝方の一族。
古くは大和政権成立にも関わった古代氏族。現在の奈良県橿原市辺りを拠点としていたが、南北朝の動乱で国を追われ、その中の一派が 四国阿波へ渡った。
四国は当時未開に等しい辺境の地であり、元来山がちな阿波國は 北朝の刺客から逃れるには格好の隠れ蓑であったが、慣れない土地での暮らしは 相当な苦労があったことは想像に易い。
忌部氏は元々 大和朝廷の祭祀の一部を司る一族で、天皇が代替わりする際に行われる「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」に欠かせない大麻(麻・アサ)の織物 "麁服(あらたえ)" を調進する役割を担ってきた。
しかしながら 南北朝の動乱により忌部氏の一族は大和國を追われたため、その伝統は途絶える。南北朝が統一された後も 当時は南朝方が逆賊と見なされたことから、麁服を調進する伝統は復活されなかった。
転機は明治時代。明治天皇が南朝を正当な皇統とする声明を発表、南朝の名誉は回復された。
大正時代には 途絶えていた大嘗祭への麁服調進が復活。以後 昭和天皇、今上天皇(平成)の大嘗祭においても麁服の調進が行われた。忌部氏直系の三木氏は、いつ復活するかどうかわからない、もしかしたらこのまま復活する日が来ないかもしれない伝統を、四国徳島の山中で500年以上守り受け継いできたことになる。
徳島山中の桜の存在
徳島の山中には桜の名所が多い。
神山のしだれ桜や、木屋平・川井峠のしだれ桜、ここ三木家住宅付近も しだれ桜を中心する桜の木が多く植えられており、花が咲く季節には 多くの見物客が訪れる。
かつて南朝方が拠点とした奈良の吉野は、日本で最も有名と言っても過言ではない 桜の名所。しかしながら多くの南朝一族がその地を追われ、生き延びるためには 追手が来ないような辺境や山中での生活を余儀なくされた。
そんな 慣れない土地での苦しい暮らしの中で、拠り所にしたのが 春に咲く桜の花。山に桜が咲く様は追われた故郷・吉野を彷彿させるもの。南朝の末裔たちは自分たちの新天地に桜の木をせっせと植えた...
とは、想像の話。
古民家と桜を眺めていると、この場所で息づいてきた歴史の重みを感じます。
三木家住宅
< 自家用車 >
高松駅から 約2時間、73km
高松空港から 約1時間40分、61km
徳島駅から 約1時間40分、58km
徳島阿波おどり空港から 約1時間50分、72km
※ 主な地点からの最速・最短距離
※ 高松・徳島 どちらからも道中に狭路が存在します。運転にはお気をつけください
後編
阿波山中。皇室に麻衣を調進してきた一族の話・後編 < 三木家住宅 / 徳島県美馬市木屋平 >