遠い昔にあった日独共同の自給自足生活<板東俘虜収容所/徳島県鳴門市>
明治維新以降、貿易など産業の分野で諸外国と接することになりましたが、時には交戦国として相対することになった国家が存在します。
徳島県の鳴門市板東(なるとしばんどう)にある「板東俘虜収容所跡(ばんどうふりょしゅうようじょあと)」は第一次世界大戦(1914~1918)で日本と戦ったドイツ兵が俘虜(ふりょ)となり連れてこられた地。経緯は囚われの身であったものの、この場所で行われた活動は、現在に至るドイツ・日本両国の友好関係の礎になっています。
板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)
徳島県鳴門市の西部・板東(ばんどう)。
渦潮で有名な鳴門海峡は少し遠い。四国八十八ヶ所第1番霊山寺(りょうぜんじ)と第2番極楽寺の中間付近に、ドイツ人俘虜たちが暮らした元収容所があります。
1914(大正3年)6月、サラエボへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリーの帝位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された事件を発端に、世界を二分する第一次世界大戦が開始された。
日本は日英同盟に基づいて連合国側に付き、ドイツを始めとする中央同盟国に宣戦布告。ドイツが中国山東半島(シャントンはんとう)に権限を持っていた青島要塞(チンタオようさい)を攻撃。短期決戦で占領することに成功した。
その戦闘において捕らえられたドイツ兵俘虜は4,715名にものぼる。日本に連行され当時全国に12箇所あった俘虜収容所に分かれて収容されたが、当時存在した俘虜収容所は寺院等に仮設されたもので規模が小さく、ヨーロッパ戦線の長期化等により収容所自体が手狭になった。
そこで考えられたのが長期収容を前提とした大規模な収容所の建設であり、その場所に板東(ばんどう、現鳴門市)の地が選ばれた。1917(大正6年)から収容が始まりその人数は1,000人に上った。
1920(大正9年)、第一次世界大戦の講和条約として前年に調印されたヴェルサイユ条約が発効すると、俘虜たちは解放され多くの者たちが祖国へ戻った。板東における俘虜収容所の運用は2年10ヶ月だった。
収容所はその後、陸軍の演習所として転用。第二次世界大戦後も施設の一部が残され、かつてドイツ兵たちが暮らしていたバラッケは大陸からの引揚者用の住宅となる。この時引揚者住宅で暮らした人物の一人に、元プロ野球選手の板東英二氏がいる。
かつての板東俘虜収容所の敷地のうち、約3分の1にあたる東側部分が整備され現在は公園になっています。
建物こそ多くは残されていないものの、公園内ではかつての俘虜収容所の建物の基礎などを見ることができます。
日独共同の自給自足生活
製パン所跡
板東俘虜収容所の特徴の一つに、俘虜たちの逃亡を防ぐための高い塀などがなかったとされる。この事は当時の所長である松江豊寿(まつえとよひさ)陸軍中佐の方針で
「俘虜たちは悪人ではなく祖国のために戦った英雄」
との考えがあり、敷地内、もしくはそれに準じる場所という活動制限こそあるものの自主活動が奨励された。
青島要塞はドイツにとっては海外領であったため、防衛していた兵士たちの多くが軍人ではなく志願兵。元々民間人出身であったため旧職は様々で、家具職人や製本業、菓子職人、写真家、農家、肉屋、パン屋など、各々の特技を生かして収容所で活躍。板東の街では俘虜たちが作った製品が販売されることがあり、ヨーロッパの先進的な技術を用いて造られた製品を初めて見る板東の人たちは驚き、大変喜んだという。またそこでの売り上げは収容所の運営資金に充てられた。
決して綺麗事だけが存在したわけではないのでしょうが、板東俘虜収容所は囚人のような暮らしを強いられていたというよりは、日独共同の自給自足生活が営まれていたのかもしれません。
こちらで見られる遺構は、売店兼便所。奥の煉瓦積みがトイレの区画と思われます。
酒保(しゅほ)とは軍事施設内にある売店の名称。
収容所内では職人によって酒造も行われ販売されていました。
建築の分野では、公園内で見ることができる石橋が代表作品。この場所で見ることができる石橋は別の場所からの移設だが、板東では今も現役で使用されている石橋が存在し「ドイツ橋」の愛称で親しまれています。
こちらは給水施設。上水を供給する設備は収容所内に何箇所かあり、水を貯めるための貯水池も築かれました。
この貯水塔はドイツ兵たちが暮らしていた時代のものではなく、戦後に引揚者たちが暮らすにあたり整備された給水施設です。
第九初演の地
ヴェルサイユ条約発効後、多くのドイツ兵たちは祖国への帰路に就いたが日本で暮らすことを選択した者たちも居た。バームクーヘンが有名な菓子メーカー等、日本で事業を興し実業家になった元ドイツ兵もいます。
収容所内では音楽活動も盛んで、俘虜たちの中には音楽家や楽器職人も居て、定期演奏会は好評を博していた。
中でも大正7年(1918)6月1日に演奏されたベートーヴェン交響曲第九番は、日本における第九初演とされる。このエピソードは平成18年(2006)に映画化され「バルトの楽園(がくえん)」の名で披露されました。
俘虜(ふりょ)と捕虜(ほりょ)
当記事では青島戦において捕らわれ日本に連れてこられたドイツ兵たちを「俘虜(ふりょ)」と統一しています。「俘」「捕」共に捕まえられるという意味があり、「捕虜(ほりょ)」と表記しても間違いではありません。
俘虜を捕虜と呼ぶ方が一般的になったのは、日米開戦を前に内閣総理大臣である東条英機(とうじょうひでき)首相が、
「生きて虜囚の辱めを受けず(いきてりょしゅうのはずかしめをうけず)」
と示達(じたつ)したことにより、
「敵に捕らわれることは恥」
「戦死は名誉」
という思想が広まり、俘虜を捕虜と蔑視を込めて呼ぶようになったとされます(諸説あり)。それによってサイパン島における集団自決や、硫黄島の玉砕、沖縄戦でのひめゆり隊の悲劇、真岡郵便局の九人の乙女など、大戦末期を中心に軍人・民間人共に数々の悲劇が起きました。
板東俘虜収容所に収容されていた元ドイツ兵たちは決して恥ずべき存在ではないと考え、当記事では俘虜(ふりょ)と統一しています。
板東俘虜収容所跡地(ドイツ村公園)
< 自家用車 >
高松駅から 約1時間、56km
徳島阿波おどり空港から 約30分、15km
< 公共交通機関 >
JR高徳線・板東駅下車、徒歩約20分
※ 主な地点からの最速・最短距離
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