四国のおすすめ観光スポットをご紹介

半島を開拓した一族と珍しい名字の由来<網代/愛媛県愛南町>

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愛媛県南部、南予(なんよ)地方の海岸線は瀬戸内海のそれと異なり、入り組んだ入り江と複雑な海岸線であるリアス式海岸が特徴。
海に向かって突き出ている半島がいくつかありますが、その一つを訪ねて先端へ向かっていくと、終点の集落でこちらの大きな木造家屋が姿を現します。

半島奥には九州大分の山なみも

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由良半島(ゆらはんとう、愛媛県宇和島市・愛南町)

豊予海峡に突き出した龍の形のような「由良半島(ゆらはんとう)」
奥にうっすら見えている山なみは九州大分。交通機関を船と考えて「街」へ行こうとする場合、ここから宇和島市や高知県の宿毛市へ行くよりも、大分県南部の佐伯市の方が距離が近い。
半島に平地は乏しく、ここで暮らす人々は斜面に寄り添うように集落を築いて生活しています。魚類や真珠の養殖が盛んで、愛媛県内他地区で見られるようなみかん畑はあまり見られない。昔は半島一帯に段畑が築かれ、そこでは芋を中心とした農作物が栽培されてきました。

由良半島先端の集落

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半島の付け根から県道292号を経て、途中で船越運河を渡り端っこの集落へ。先端への道路や由良半島を一周する道路はありません。こちらの集落で道路は終点になります。

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網代(あじろ)

コミュニティバスはもう一つ先「本網代」までの運行。

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網代は小さな漁村。
ここ由良半島や水荷浦がある三浦半島でも言えることですが、夏は台風・冬は季節風が強く吹き付ける事もあってか、強風に強いコンクリート造りの家を多く見ることができます。

真珠養殖業への転換と失われた段畑

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旅先ではマンホールを眺めましょう。

公的なものには、その土地の名物や特産品が描かれています。
網代は市町村合併で愛南町になる前は内海村(うちうみむら)。旧村内では真珠を育むアコヤガイの養殖が広く行われており、最盛期は「四国で最も裕福な村」と称されたこともあります。

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その代償に失われたものが「段畑」
注意深く斜面を観察していると、かつて段畑であった跡を随所で見ることができます。

戦後に真珠の養殖業が確立されると、その事業で得たお金で食糧を買う貨幣経済に移行していったことにより、非効率的な段畑を用いて行われていた自給自足生活が行われなくなっていきました。

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平地に乏しい南予のリアス式海岸地帯(特に半島部)では稲作を行うことができず、加えてしばしば強い風が吹きつけるため畑作を行うこともままならない。
魚がたくさん獲れると言っても人間が活動するエネルギーには主食(炭水化物)が必要なわけで、天災に比較的強い芋類が段畑で栽培されていたようです。
地理的には南九州が近いため、そこから伝来したものかもしれません。

魚類製造家屋

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本網代(ほんあじろ)

網代バス停がある「本谷地区」から半島先端に向かって数分進んだところが「本網代」地区。本とついているあたり網代集落の元祖。初代開拓地と言えます。

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本網代へ訪れるとまず目に入るのがこちらの古木造建築。網代を開拓した浦和(うらわ)家に由来する建物で「魚類製造家屋(ぎょるいせいぞうかおく)」と言います。
壁は隙間なく板が敷き詰められ窓は中央部に僅か。強風に耐えるための構造であることと加工した魚介類の貯蔵庫になっていたため、雨風と内部へ入る光を遮る(家屋としては)風変りな構造を併せ持っています。

文化5年(1808)、高知県幡多地方(現高知県西南地域)から移り住んだ浦和家の祖先である儀左衛門(ぎざえもん、祖父)とその同士たち。しかしながら開拓は容易なことではなく、網代地区への定住が可能になったのは萬蔵(まんぞう、父)の代になってから。漁法の発達などにより漁獲量は増加、網代での暮らしは徐々に安定を得るようになってきた。その功績もあって萬蔵の時代に「浦和」の姓を名乗ることが許されている。
その遺志を受け継ぎ網代の名を一躍世間に広めたのが「浦和盛三郎(うらわせいざぶろう)」。魚類製造家屋を立てた主です。

盛三郎は先祖代々受け継いだ漁法の改良を進め、漁獲量は更に増加。が、それを売ってお金にしないことでは網代は発展しない。かと言って冷蔵庫などは無い時代なので、魚を生のまま運ぶことは不可能。

そこで目を付けたのが「加工」
獲れたマグロやカツオを研究し、明治17年(1884)に蒸気で脂を抜く鰹節の製造法を確立。網代で獲れた魚介類を加工することで県外へ出荷することができるようになった。明治22年(1889)にこの魚類製造家屋を建て生産効率が向上。製品は飛ぶように売れ巨万の富を得た。

盛三郎は私財を投じて、集落の道路建設や小学校の創立など、生活インフラの整備に着手。また実業家としては宇和島運輸の創立に参画して、地元資本による大阪-宇和島航路を開設して好評を得た。
明治23年(1890)には大阪に「伊予物産会社」を立ち上げ事業はますます広がりを見せ始めた矢先である明治25年(1892)、網代へ帰省する途中に松山で急死。49歳という若さだった。

その後の浦和家は当主が途絶え盛三郎の功績は世の人の記憶から失われていきましたが、魚類製造家屋は後世に引き継がれ現在は一般の方の家屋として使用されているようです。

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魚類製造家屋の前には本網代バス停があり、交通機関でこちらを訪れることが可能。
かつては宇和島自動車の路線バスが運行されていましたが、現在は愛南町が運営するコミュニティバスに移管されています。

昭和天皇も微笑んだ幸せが込められた名字

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網代集落の変わった特徴として、他ではあまり見ることができない名字が存在する点が挙げられます。

明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」が出され日本国民は名字を持つことが許されました。
それまでは「網代の●●兵衛」「●●兵衛の家内」など、「呼び名」が公式的な役割。かと言って突然そのようなお達しが出たところで、当時の人々の多くは学校教育を受けていないので字を書くことができません。網代の場所であれば、役場へ申請に行くことも困難です。
そのような理由から網代に限らず全国的にも政府の思惑程は名字が広まらず、改めて明治8年(1875)2月13日に「平民苗字必称義務令」が出されます。これによって日本国民は必ず名字を名乗らないといけなくなりました。そこで困った村人たちの多くが、学識のある村長さんや和尚さんに付けてもらった、というのが一般的に言われる名字創姓の通説。

網代では名字の名付け親を頼まれたのが、開拓者たちのリーダーである浦和盛三郎。網代には細かく分けて3つの集落が存在しますが、

荒樫(あらかし)...「大根(おおね)」「真菜(まな)」「粟野(あわの)」など、野菜の名称
本谷(ほんだに)...「目関(めぜき)」「松綱(まつつな)」など、漁具の名称
本網代(ほんあじろ)...「岩志(いわし)」「浜地(はまち)」「多古(たこ)」など、魚の名称

一見ふざけているように見えるこれらの名字ですが、全て網代の繁栄を願ってつけられたもの。網代の中心である「本谷」にはここでの生活に欠かせない漁具の名前を。残り二つの集落には、野菜や魚の名前をつけて、恒久的な豊作・豊漁を願った。

昭和25年(1950)に昭和天皇が巡幸で当地に来られた際、これらの名字を目にしてとても微笑ましく受け止められたそうです。

名字創姓は時間の猶予が無く知識不足の中強制的に行われたので、家が山の下にあったから「山下」「山本」など急場しのぎでつけられたものの方が多いとされる。多い名字が存在するのはそのため。
故に民俗学的に見ると網代の創姓話は珍しいケース。希少な例・名字として学者たちの間で知られているそうです。

※名字創姓については、地域によって数々の例があります

美しく温かい網代の海

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網代の海を覗いてみると、海の水がとても美しいことがわかります。
生き物の姿をたくさん目にすることができますが、この通りハリセンボンの姿も。ハリセンボンは温暖な海を好む南方系の魚なので、この場所にも黒潮由来の暖かい海水が流れ込み、豊饒の海となっていることがわかります。

魚類製造家屋

< 自家用車 >
高松駅から 約3時間50分、276km
松山空港から 約2時間20分、125km

※ 主な地点からの最速・最短距離

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この記事を書いた人

野瀬 章史
野瀬 章史/ゲストハウスそらうみ 四国八十八ヶ所霊場会公認先達 法名・照山の僧籍

四国高松でゲストハウスそらうみを運営する傍ら、四国八十八ヶ所霊場会公認先達として、お遍路さんの案内を務める。法名・照山(しょうざん)の僧籍も持つ。趣味はバイクツーリング、カヌー、登山、鉄道、料理など。日本の全離島・全地点を隅々まで回るべく、愛犬しょうとの日本一周旅の途上。