山中に佇む巨大な古刹・前編<龍澤寺/愛媛県西予市城川町>
「丸に十」
と言えば戦国大名の雄・薩摩の島津(しまづ)氏の家紋。
ですがここは鹿児島ではありません。「奥伊予」と呼ばれる愛媛県の山奥です。
龍澤寺公園
龍澤寺(りゅうたくじ/愛媛県西予市城川町)
お寺を中心に付近一帯が公園になっています。
その管理棟。山菜等特産品の販売があります。
それよりも、屋根近くの壁に注目
「丸に十」の家紋!
垂れ幕から瓦に至るまでこの敷地内は島津一色なので、鹿児島にいるような気分になります。
島津氏ゆかりの曹洞宗寺院
龍澤寺の沿革
曹洞宗寺院であること等、ここでもその影響(曹洞宗は島津氏の菩提宗派)を見ることが出来ます。
創建は鎌倉時代の元享3年(げんこう、1323)。当初は龍天寺と称した。
それから約100年後、島津家七代当主・元久(もとひさ)の長男・仲翁守邦禅師(ちゅうおうしゅほうぜんじ)がこの地にやってきた際に、現在の名称に改名された。
※関ヶ原の合戦に参戦した「鬼島津」こと島津義弘(しまづよしひろ)は十七代当主
時代は室町時代初期。各地の大名はまだ「守護大名」と呼ばれていた時代。薩摩・大隅・日向(現在の鹿児島・宮崎県)等、南九州の覇者となったのが島津家。
表向きは仏門に入った長男が自身の仏道の修行のため、もしくは寺院を中心にして未開の地である奥伊予発展のきっかけとするべく...となっているが、果たしてそうでしょうか。
この時代、地方各地で力を付けた大名が中央集権(室町幕府)に従うことなく、独自の政治を執り始める動きが出始めていた頃。すなわち、守護大名が「戦国大名」へ移っていく流れが起き始めた時期にあたる。
幕府がある京への足掛かりを作りたいけれど、九州北部や中国地方には強力な大名がおり(豊後の大友氏、安芸の毛利氏など)、それらの地域に進出してしまうと激戦は避けられない。それらのエリアを避ける形で対岸の四国へ。それも土佐の長宗我部氏や伊予の水軍たちの勢力が及ばない山奥に陣を構えたのではないだろうか。
当地名物・屋根付き橋
「禹門山龍澤寺(うもんざんりゅうたくじ)」境内案内図
境内へはまず、小川に架かる「偃月橋(えんげつばし)」を渡るところから。
「屋根付き橋」と呼ばれるこの形状は南予独特のもの。主に寺社に架かる橋で、
「神仏に詣でた人たちが一寸立ち止まって、呼吸や身だしなみを整えれるように」
この場所は雨だけでなく雪も降る奥伊予エリア。お寺に着いた時の安心感は何事にも代え難いことでしょう。南予の屋根付き橋には優しさが詰まっています。
深い意味が込められている仁王門
仁王門
質実剛健を良しとする禅宗(曹洞宗・臨済宗)のお寺さんを象徴するような、古びた雰囲気。その山門周辺に目を向けたいと思います。
宝永4年は西暦1707年。
同年10月に発生した宝永大地震(M8.4)の後、11月に富士山が噴火(歴史上最後の噴火)。また伊勢詣の土産で有名な「赤福」は、この年創業とされる。
違う年では霧島、桜島、浅間山、阿蘇などが噴火するなど、大地震と火山噴火が多かったのが宝永年間(1704~1711)の特徴です。
聯
鳥巣尭野樹(とりはすくうぎょうやのじゅ)
魚躍禹門淵(さかなはおどるうもんのふち)
仁王門の「聯(れん)」
古代中国に由来するもので、左右二句併せて一つの物事を表現する掲示方法。
難しすぎて意味がまるでわからないのですが(特に前者)、
曹洞宗の宗旨が厳しい修業を行い自身を高める教えであり、その過程を経験すると鯉でも龍に成ることができる。
すなわち、
「平凡人でも仏に近付くことができる」
ということでしょうか。どなたか解釈を知っていたら教えてください。
アニメの話ですが、中国の廬山(ろざん)で聖闘士になるための厳しい修業を積んでいる少年が、師匠からそんな訓示を受けていたことを、こちらの聯を見て思い出しました。
不許葷酒入山門
龍澤寺の仁王門の教えが深過ぎて、なかなか前に進むことができません。
「不許葷酒入山門」
「くんしゅ にゅうざんもんゆるさず」とお読み下さい。
「酒」はその通り酒
「葷」は臭みや臭気のある野菜
ニラ・ニンニク・ショウガ・タマネギ・ラッキョウ
を「五葷(ごくん)」と括ったりもする。
酒は自己を見失わせる作用があり、精力がつく葷は欲望が生まれる。どちらも修行には必要のないもの、という教示。
ただ、この教えは参拝者に強要するものではなく、
「ここには酒や葷を絶った精進が進んだ僧侶がいます」
という寺のプライドを示したもの。と取ることもできる。
世俗的な寺院でないからこそ、この訓示が輝いて見える。
日頃不摂生な生活を送っているからこそ、そんな機会に憧れがあります。
中雀門
仁王門をくぐり参道を進むと大きな山門が現れます。参道の幅員はとても広いけれど、階段の傾斜はなかなか急。
中雀門(ちゅうじゃくもん)
拱北之古道場
「拱北之古道場」
「きょうほくのふるどうじょう」とお読み下さい。
こちのお寺さんではとっても頭を使います...
「拱」
「こまねく」。じっとしている意味。
拱北(きょうほく)=北で拱いている=北でじっとしている
→「北極星」のこと。北辰(ほくしん)とも呼ぶ。
夜空に浮かぶ星は、ほぼ動くことのない北極星を中心に多くの星が集まる。
すなわち、
「北極星を目掛けて、多くの星が集まってくる」
仏教的に言い換えると、
北極星=拱北(きょうほく)=仏
多くの星=大勢の衆生
拱北之古道場→仏を求めて大勢の衆生が集まる古くからの道場
ということでしょうか。
禅宗(曹洞宗・臨済宗)のように厳しい修行を前提とする宗派は、寺を「道場」と呼ぶことがあります。
中雀門の柱
現在の山門は、天保13年(1842)の再建。
周防國(すおうのくに、現在の山口県東部)出身の当時の住職が連れてきた大工たちが中心になって、何十年もかけて工事が行われた。
四国の寺院と言えば、戦国時代に土佐の長宗我部元親に焼かれたところが多いが、龍澤寺に関してはその記録が見られない。
また山門の火災による再建についても、これだけの規模の寺院を補修する費用・労力を、集落はもちろん伊予一国で賄う余裕があるとは思えない。
随所で見ることができる「丸に十」の紋から考察するに、薩摩の島津家が関与しているのでしょうか。
良い面・悪い面共にありますが、宗教の布教を装って穏便に侵攻を進める手法は、大航海時代におけるヨーロッパ諸国も同様。
島津家の菩提宗派である曹洞宗寺院が南予(なんよ、愛媛県南部)で多く見られる点は、この地では宇和島を治める伊達家と棲み分けが行われ、島津家の租借地(そしゃくち)のような存在があったのかもしれません。両強大大名にとって共通の敵は徳川幕府。密通があったとしても不思議ではありません。
偶然ですが、伊達家の菩提宗派も禅宗。そちらは臨済宗(りんざいしゅう)ですが、四国他エリアと違って、南予では臨済宗寺院も多く存在しています。
龍澤寺
< 自家用車 >
高松駅から 約3時間、219km
松山空港から 約1時間30分、77km
※ 主な地点からの最速・最短距離